東京高等裁判所 昭和61年(行ケ)168号 判決
一 請求の原因一ないし三の事実(本件に関する特許庁における手続の経緯、本件発明の要旨及び本件審決理由の要点)について、当事者間に争いがない。
二 前示本件発明の要旨に成立に争いのない甲第二号証(本件公報)を総合すると、本件発明は、非晶性粉末状態におけるN6―2´・0―ダイブチリルアデノシン―3´・5´―環状燐酸塩(DBc―AMP)が水溶液ではもちろん非晶性粉末状態においても不安定で速やかに加水分解して、N6―モノブチリルアデノシンー3・5―環状燐酸塩(以下MBc―AMPと略称する)に変化するため、製造工程中に細心の注意が必要とされ、また、製品保存に際しても特に低温に保存しなければならないことなど取扱いが難しく、これらの点がその開発に障害を与えていたが、本発明者らは、かかる障害を克服し、これを安定化することを技術的課題として研究を重ねた結果、非晶性粉末状態におけるDBc―AMPはその水分含量3%付近を境として安定性に顕著な差があり、水分含量が4%以上の場合その水分含量が高くなるにつれ急激に安定性を失い、MBc―AMPに分解する傾向を示すにもかかわらず、水分含量を3%以下にすると高い安定性を示し、37℃の保存温度でも少なくとも六〇日間は安定に保存されるという事実を見い出し(その安定化効果は別紙第2図のとおり)、DBc―AMPの水分含量を3%以下に調整せしめることにより非晶性粉末状態での安定化せしめる方法を提供するに至つたことが認められる。
三 取消事由に対する判断
そこで、原告が主張する従来法の公知性について検討する。
成立に争いのない甲第二号証(本件公報)によれば、本件明細書の発明の詳細な説明の欄には、原告のいう従来法に関して、「従来DBc―AMPは、その合成液から精製処理されて得たDBc―AMP水溶液あるいは適当な有機溶媒溶液を凍結乾燥に付して非晶性粉末として調製されている。」(本件公報第二欄末行ないし第三欄第三行)、「本発明においてDBc―AMPの水分含量を3%以下に調整する方法としては種々の乾燥法が適用され、例えば真空乾燥法、吸湿剤を用いる方法、減圧または真空下で吸湿剤を用いる方法、凍結乾燥法、真空噴霧乾燥法、有機溶剤脱水法などがあり、これらの方法を適宜に選択してあるいは組合せて実施される。」(同第四欄第九行ないし第一五行)及び「常法通りいつたん凍結乾燥法等である一定の水分含量にまで乾燥した後、上記吸湿剤等の存在下であるいは他の手法を用いてDBc―AMPの水分含量を3%以下に調整せしめる方法が望ましい。」(同第四欄第二九行ないし第三二行)との記載があることが認められる。これらの記載内容に徴すれば、本件発明の発明者は、DBc―AMPの水溶液あるいは適当な有機溶媒溶液を凍結乾燥して非晶性粉末とする調製法が当業者において周知の技術手段であるものと認識していたことは明らかである。確かに、被告の指摘するように、特許明細書の記載は、本来出願人の主観的認識に基づくものであるから、その記載のみによつて、必ずしも、そこに周知の事項として記載された技術手段が客観的にも当業者にひろく認識されあるいは実施されている周知の手段であることを根拠付け得るものではないが、成立に争いのない甲第七号証の一ないし四(西独ベーリンガー・マンハイム・ゲー・エム・ベーハーの販売している商品の一九六九年の価格表)及び甲第八号証の一ないし四(ベーリンガー・マンハイム・ジヤパン株式会社が日本において販売している商品の一九七一年の価格表)によれば、本件特許の出願日前に既にDBc―AMPの非晶性粉末は一般に市販されていたものであることが認められる。また、成立に争いのない甲第四号証の一ないし三(共立出版株式会社昭和三六年七月一五日発行の化学大辞典第三三二頁)によれば、水溶液その他の含水物を凍結させ、減圧して水分を昇華させて乾燥物を得る凍結乾燥手段は周知の技術手段としてひろく用いられていたことが認められるから、反証のない以上、DBc―AMPの水溶液あるいは有機溶媒溶液からその非晶性粉末を得るについて凍結乾燥手段を適用することを妨げないものというべきである。右認定にかかる事実に、本件明細書に記載された乾燥手段に関する前記記載内容を合わせ勘案すると、DBc―AMP水溶液若しくは有機溶媒溶液に凍結乾燥を施して非晶性粉末を得る技術手段は、本件特許の出願日前に当業者において周知のことであつたものと推認するのが相当であり、これを覆すに足る証拠はない。
また、前記のとおり、本件発明の技術的課題はDBc―AMPを安定化することにあるが、成立に争いのない甲第一三号証の二(一九六六年六月発行Jounal of Pharmaceutical Science 第五六一頁ないし第五六三頁)、同号証の三(広川書店昭和四五年一月一五日発行、内藤俊一著「薬剤の安定性、薬剤学体系Ⅱ」第七九頁)によれば、固体製剤(固形製剤)は水分(湿気)を含有することにより安定性が影響を受け、不安定は状態となる蓋然性がきわめて高いことが本件特許出願前周知であつたものと窺うことができる。そして、粉末も右にいう固体製剤(固形製剤)であるから、反証がない以上、非晶性粉末状態となつたDBc―AMPにも右の周知の事実が適用され、含有水分による不安定性に伴い生起する問題については、当業者であるならば予測し得るものというべきであるから、DBc―AMPを安定化し、含有水分による不安定性に起因する問題を解消すること、すなわち、本件発明の技術的課題については、本件特許出願前において、当業者が一般的に認識していたものと推認することができる。この認定を覆すに足りる特段の証拠もない。
四 しかるに、本件審決は、原告主張の従来法である凍結乾燥手段の周知性を否定し、加えてDBc―AMPの安定化という本件発明の技術的課題の周知性を否定したため、その存在を前提として本件発明の進歩性の有無について判断をしなかつた。しかして、右の点については、専門官庁である特許庁において審理を経たうえ、判断をするのが相当というべきであるから、右の点の判断を欠いた本件審決には、審理を尽さなかつた違法があり取消しを免れない。
五 以上のとおりであるから、本件審決の取消しを求める原告の本訴請求は、理由があるものとして、これを認容することとする。
〔編註〕 本件発明の要旨は左のとおりである。
「N6―2´・0―ダイブチリルアデノシン―3´―5´―環状燐酸塩の非晶性粉末を水分含量3%以下に調整することを特徴とするN6―2´・0―ダイブチリルアデノシン―3´・5´―環状燐酸塩の安定化法。」